毘沙門

641  周遍寺〜経納/経尾山〜毘沙門(6.7km)


寒くなる寒くなると予報は出るも、暖か日和で年明ける。

昨年来より気になっていた幟りはためく周遍寺。

廃寺とは言え人出が入り一部復興見事な出来栄え。続きの尾根から巡視路歩き。



◎所在地 : 加古川市志方町野尻の北東から城山GCの北面尾根(加古川市と加西市の境界)と周遍寺

◎地形図 :  『笠原(かさはら)』 『社(やしろ)』

◎山行日 : 2016.1.3  (日)    晴れ   

◎山行者 : 単独    Age=68              

◎参考 @経納 14.3.28 605    

◎コースの見所など : @周遍寺とここからの展望  A巡視路歩きは快適  B毘沙門

◎走行距離 : 往路 20.1km  往復 43.0km


権現湖北詰め(中山交)P〜R79加古川・加西市境界通過〜周遍寺〜経納(220.9m四等)〜

引き返し〜加古川・加西市境界北進(巡視路)〜毘沙門(191m)〜引き返し〜

巡視路歩き〜R118に出る〜権現湖北詰め(中山交)P


自宅発(9:47)〜東播磨自動車道〜1・(10:17〜10;30)〜R79北上〜2・(10:44)〜

3・周遍寺(10:59〜11:31)〜4・経納(11:37)〜5・境界尾根(11:44)〜6・毘沙門(12:00)

〜7・ゴルフ場(12:15)〜毘沙門(12:25)〜5・境界尾根(12:40)〜8・分岐(12:52)〜

9・鉄塔(13:14)〜R118〜権現湖北詰め(中山交)P(13:35〜13:45)〜見土呂〜

神野〜自宅(14:26)


遅ればせながらbU40を作っている時、周遍寺が出てきて「明日天気が良ければ初歩きを兼ねて尋ねてみよう」と思った。3日朝今日も穏やかな天気だったので周遍寺に向かい、何時もの所に車を止めた。1・権現湖北詰め(中山交)P(10:17〜10:30)Pは私だけで支度をすませて発つ。R79は拡幅工事も済んで立派な自転車道も併設してある。R79を歩いていると峠を越えた辺りに例の看板が立っていた。


『網引湿原野生生物保護地区(網引湿原地区)』  周遍寺への入口から眺める糠塚山(10:43)

周遍寺の看板(10:37)
指定年月以下5番までは糠塚山(昨年12.20)と同じ。『網引湿原野生生物保護地区(網引湿原地区)』6.要旨:兵庫県下でも最大級の広さを誇る湧水湿原で、希少な水生動植物多数生息している場所です。以下糠塚山と同じ。さらに下っていると又看板が立っていた。

『糠塚山 「播磨風土記」の中で「大汝命(おおなむちのみこと)が下鴨里で米をつかせると、糠が散り飛んできた場所なので糠岡と呼ぶ」とあり、南網引町の糠塚山が比定されています。この周辺には古墳や石棺仏が多く存在し、歴史ハイキングを楽しむことが出来ます。     

間もなく見なれた『周遍寺』との行政の標識を見て周遍寺への道を上る。2・(10:44)左へ道が分岐する所に三枚目看板が立っていた。周遍寺野生生物保護地区 6.要旨:兵庫県レッドデータブックに記載されている絶滅危惧種などの希少な動植物が生息しています。


 
(2)周遍寺入口(10:44)      周遍寺への道に入って間もなく(10:46)

簡易舗装道を上っていると下ってくるハイカー夫婦(同年代?)に「地元の方ですか」「はい」お寺の事を聞くと「立派な鐘つき堂などが立っていて見晴らしは最高や」との事だった。先ずは真新しい山門と石段が目に入りそれを囲むように施主名の入った『南無大師遍照金剛』の紅白幟が連なっていた。山寺にしては予想外に広いPが在り、更に山林を造成し広場が出来かかっていた。

直ぐ左手小高い山の石段を上がると歴代住職の墓地だった。阿遮莉・大阿遮莉(闍でなく遮だった)の卵塔石碑が拾基位建っていた(倒壊しているのも有り手入れも供養もされず荒れ放題だった)。山門右横の石碑の正面は『高野山真言宗 如意山周遍寺』右側面『東向観音霊場 加西西国二十三番霊場』と刻られていた。


 
(3)周遍寺に着く(10:59)       山門右手の石柱

 
                 山門と山門からの石段

また大看板には
『周遍寺について 名称 如意山周遍寺・所在地 加西市網引町・ 宗派 高野山真言宗 開基 法道仙人白雉二年(六五一年)・ 本尊 如意輪観世音菩薩  当時は、孝徳天皇の時代白雉二年(六五一年)法道仙人が、この山の北の峰に石に写した妙経一部を納め、経の尾と号
中世には七堂伽藍を備え、僧坊三十余り数えたという当時有数の名刹としてさかえました。しかし、天正六年(一五七八年)羽柴秀吉軍の中国攻めの際、兵火にかかり伽藍を消失、長らく荒廃していましたが、延宝九年(一六八一年地元の庄屋高田六郎右衛門政恒が中心となり再興しました。以降昔日の姿を取り戻し、安永、文化年間には嵯峨御所の信任を得て御祈願所となり近隣に並びなき国家鎮護の霊場となりました。

その後消失、改修繰り返す中、同山一院の密蔵院や地元の多くの方々尽力により現在にいたっています。境内には中央東向きに如意輪観世音菩薩を本尊とする本堂や右隣の開山堂、西側の大師堂や磐座上の鐘堂などが建っており、周囲には稲荷社、金毘羅社等が建ち、四国八十八ヶ所めぐりが整備されています。

また平成二十七年網引町内篤志家により参道(百八の階段)・手洗・四阿・展望所等が竣工され、遠くに明石海峡大橋、淡路島、六甲山等が望め、かっての眺望がよみがえりました。加西西国三十三か所霊場二十三番札所) まえはうみ うしろはきよき こずながわ そらにかがやく にょいさんのつき 加西市観光まちづくり協会』


地元の家族連れがぱらぱらとお参りされる中、一人の男性に聞いたところでは、小額の寄進者の他匿名(把握されているらしい)での大口寄進でこの工事が竣工したとの事だった。億か億に近い費用がかかっていると思う。この人の話では昔は北側からお参りしていたとの事、地図で見る破線がその参道か。また別の日に若い頃『肝試し』のお寺としても有名だったと聞いたことを思い出した。

改修された石段は、人間の煩悩の数と言われている百八段、数段ごとに作者は分からないが訓示?が彫られた石柱が立っていた。その中に一言『盛りをば 見る人多し 散る花の あとを問うこそ なさけなり』二十数本立っていたと思う(大口寄進者の語録?訓示?)。境内二段目に本堂と開山堂・展望所が建っていた。三段目にも何らかの建物が在ったと思われる。そこから幟に沿って緩く上ると総欅造りの新稲荷社が建っていた。


 
鐘つき櫓と右本堂正面柱には上部に梵語が並び
『維持 平成27年十一月十五日乙未山主慈啓敬白』

 
本堂から一段上の平地から稲荷社を眺める
後の山は△経納(11:28)

発(11:31)さて、△経納へは何処から・・・このコース近年『やまあそ』が歩いていたのでそのHP見てくればと思う。稲荷社の裏から踏み跡が在りそれをたどると予想外に早く覚えのある分岐に着く。(11:33)〜4・経納(11:37)き返し分岐から加古川・加西市境界に乗る。5・境界尾根(11:44)視界無き巡視路を快適に北へ進む(11:52)191m手前鞍部境界から西に外れて毘沙門へ向かう。

6・毘沙門(12:00)おやつを食べて、今日は西への道の探索に入ると下った先はゴルフ場に出た。7・ゴルフ場(12:15)村人のお参りは何処からなのだろう?。帰りは西国三十三番巡拝道を巡って毘沙門を後にした。(12:25)〜引き返し〜巡視路歩き〜5・境界尾根(12:40)〜8・分岐(12:52)〜R118の何処に出るのか楽しみだったが路は地図の破線通りだった。権現湖北詰め(中山交)P(13:35〜13:45)


トップに戻る  歩きの記録に戻る


4・経納・220.9m

@