784 比延山/比延城跡 (約3.0km)

「小新屋観音」お参り終えて計画通り△比延山へ。登山口(P)へは迷いながら辿り着く(18年振り二度目)。
登山口分からず尋ねて見つかる。そこそこ踏まれた道を上り、中程からは急上り時にはロープに助けられ
着いたピークは台形尾根、東西南展望視界良し。
城山公園P〜173m〜比延山/比延山城跡(286.9m四等)〜北西へ下る〜林道〜城山公園P
自宅発(9:09)〜稲美町〜R=175〜山南町小新屋観音(10:27〜12:06)〜往路引き返し〜
山南仁王道の駅(資料)〜日本へそ公園通過〜1・城山公園P(13:08〜13:20)〜
2・グランド南端/登山口(13:23)〜3・(13:35)〜4・南郭(13:45〜13:52)〜
5・北郭△比延山(13:54 おやつ 14:08)〜6・(14:20)〜7・・(14:30)〜P1・(14:43)〜
自宅・(15:30)
穏やかな晴天の中、今年の元旦も山南町の小新屋観音にお参りが出来た。小新屋観音(10:27〜12:06)下のPに車を置いたがPは例年になく整備が行き届いていた。先ずは本堂と脇の祭神にお参りし、たき火に当りに行くと世話人さん(輪番)にお茶と煎餅で接待して頂く。今年は珍しく地区の駐在ポリスが巡回中にその輪に入られていた。後の談によると年配の方が輪に入るよう引き留めたとの事だった。

小新屋観音 P 10:34 小新屋観音手水場近くの新春飾り 12:05
年配同士の昔話や地区の近々の話などを聞いていると面白いやら為になることも有り楽しい時間が過ごせた。話しの内容の一部「小新屋地区は村の持山が多く又良い木が育っていてそれを売ったお金を山分けしたり本堂を建替えたり屋根付きの橋を架け替えたりして来た」なんてことも話されていた。屋根付きの橋は私も知っていてその事を話したりもした。お参りの中に見覚えのある人も居られ、12時を目途に火の始末をして当年の世話が終わり私もお寺を発った。
次は西脇の比延山に向かった。一度上った事があるが今回も復習はせず向った。北から入った麓の集落は道幅が狭く密集し登山口を探すのに右往左往、最後はナビを使った。1・城山公園P(13:08〜13:20)P直前左手に『城山グリーンスピードウエイ』と言うラジコンカー(エンジン仕様)の公式コースが在る。ここで数人が練習をしていて見に入った事を思い出した。広いPには一台の車が止まっていた。地図を見るとP(広場)の南端から破線が目指す山の頂きに上っていたのでそこへ行くと城跡の説明看板二枚が立っていた。
看板@
『比延山城と黒田官兵衛 北播磨黒田官兵衛生誕地の会 西脇市観光協会 黒田官兵衛の父は黒田城主八代黒田重隆ですが、その妻女が比延山城主八代、比延常範の娘です。つまり、黒田官兵衛の母(懿賛院/いさんいん)にあたります。比延山城初代は「播磨鏡」にも本郷弥三郎頼兼と記されています。近年日の目を見た黒田家略系図(荘厳寺蔵)と略系図を書き、荘厳寺に納めた勝岡嘉作孔美/かつおかかさくのりよし)なる人の子孫が健在で、勝岡家の霊簿、勝岡家族譜より明らかになりました。
本郷弥三郎頼兼は、赤松則村(円心)の孫、本郷直頼の子で、「明徳の乱」京都二条の戦いで黒田城主二代城主重勝と共に戦功を上げ、丹波との国境重要拠点へと派遣され、比延山山頂に城を築き比延氏を名乗るようになります。比延山城成立年代は定かでありませんが。明徳の後となれば応永年間の早い頃でしょうか〔一三九四〜〕。黒田城主二代重勝は比延山城主初代頼兼の妹を妻とします。当時は赤松一族の絆が強く黒田家略系図が語る卒年より推測すると比延山城が出来る前に娶ったと思えます。
初代頼兼ー範安〜ー・・・〜実範ー常範ー懿賛院(法名)後、懿賛院(法名)その他兄弟二人記載省く。懿賛院の卒年が元亀三年五月(黒田家略系図)であることから比延城は好種から十代、好冬まで文禄、慶長頃まで存続したと思われます。城麓には城主屋敷を中心に別所村として賑わいもあり種迷/たねつぐ は勝岡と姓を改め、医を業として別所村に住す、と勝岡族譜は記しています。城主の死亡と急激な社会変革にはついてゆけなかったのでしょう。明治十年比延村との合併その村名も消滅します。』
看板A
『比延山城跡 ほぼ独立した急峻な山である比延山(標高289m、比高/ひこう220m)の山頂に延長180mにわたって曲輪が築かれています。大きく北郭群と南郭群に分けられ、両者とも階段状に小さな曲輪を連ねている点が共通していますが、細かく観察すると、北郭群は曲輪の削平が不十分で曲輪の斜面(切岸/きりぎし)も緩やかであるのに対し南郭群はそれぞれの曲輪がはっきりし、曲輪間をつなぐ通路も設けられています。
以上の点から、北郭群は南北朝時代に築城されたまま残され、南郭群は室町時代に改修されたことがうかがえられるのです。このころの山城は合戦の時にこもるための城で普段は見張り番がいるだけで。そのため建物も粗末な小屋程度しかなかったようです。比延山城の城主は本郷氏です。本郷氏は南北朝時代に当地に配置された赤松一族で、初代は本郷直頼といい、頼兼、頼木?と続きますが嘉吉の乱(1441)没落し、復興後も比延山城には帰らなかったと伝えられています。
この本郷氏の歴史は比延山城の現状とも一致しています。つまり、北郭群は直頼が築城したままのものが残り南郭群は嘉吉の乱ごろの改修にかかるものと考えられるのです。このように比延山城は、城史と城郭の年代観が一致する貴重な例でです。なお、秀吉から炭の札状をもらった比延氏は野村町の野村構居城主上原氏の被管人で戦国時代に京都から比延に来た一族ですが、比延氏が比延山城を使用した痕跡や記録はありません。 1994年西脇市教育委員会』
看板から道らしき形跡無く先のグラウンドでキャッチボールをしている青年に「この上の山に登る道知りませんか」と尋ねると「グランドの端からと思います」との事。2・グランド南端/登山口(13:23)「頂上迄700m 南登山口」「比延山城」の案内があった。道は適当に整備されていて植生は灌木帯とも雑木帯とも言える上りが続き一段上り切り二段目に着く。3・(13:35)

2番 登山口からP方面 13:22 2番 登山口 13;23

登山道 13:26 3番 尾根肩13:30

直登コース 13:44 頂き直前で振り返る・左山塊金城山とアンテナ山 13:46
短く下り次の上りから急登になる。中程だったかロープが出て直登コース(岩盤)とジグザグコースに分かれる。私はジグザグを選んだ。100mごとに残り距離を示す札が立っていてここで「あと50m」だった。上り切り直前で下方が開け展望する。金城山・アンテナ山・麓の田園風景・西脇市街など広く見えた。4・南郭(13:45〜13:52)木製の椅子と「比延山城跡」の石標の横に「兵庫の景観ビューポイント 150選 平成30年度 兵庫県」の名盤が有った。これは矢筈山と相生市の坂越の山でも見た。

4番 南郭 13:47 4番 西面150選名盤と城跡石柱 13:48

4番 東面・西光寺山(右)方面 13:49 4番 笠形山・千ヶ峰方面13:51
この石標の西側が伐採され足元から全開していた。先程の展望と変わらず笠形山から千ヶ峰方面全てが見えた。東側では西光寺山から三草山方面全開。ほぼ横這いで北郭へ向かう。5・北郭△比延山(13:54 おやつ 14:08)おやつを食べながら展望。こちらは西麓から目を惹く大きなスラブ?岩盤の上に立つ。展望は南郭と変らない、北にピラミッド形の高山が目を惹く。木製の椅子には「西脇市岳人 贈」となっていた。

5番に着く 13:54 5番 △タグ有り 13:56

5番から4番を眺める 13:56 西光寺山(右)妙見山と高山(尖り)13:57

5番から北尾根 14:18 6番出口 14:20

6番林道 14:20 舗装路から比延山城跡の眺め 14:34
下りはピストンか道が在れば周回と考えていたので北への道を探すと在ったのでこれを下ることにしたがその道が東の谷へ?がっていれば厄介なので少し下って見て北西尾根に向っていれば引き返す事にして下った(コースを復習をしていれば東に下らない事が分かっていた)。尾根肩から左(西)に下っていたのでそのまま下ったが直下り道でロープにもすがり乍ら下った。下方は緩やかな雑木帯で良かった。6・(14:20)良く使われている林道に出た。この道は土石を採取するための道の様だった。舗装路に出ると正面は広い墓地。7(14:30)舗装路を歩きPに戻った。P1・(14:43)
@
2