bR91   穴地蔵〜水山〜(コースアウト)


△長ズエ△沼在る町境界を歩くつもりで「井中」から、

古道を辿って主尾根に出れば視界開けてあの山この山。

更に上った展望所では、先の視界に輪を掛けて、見える見えるあの山この山。

穴地蔵その右上の岩盤に朱で描かれた壁画(と思うも実体はつかめず)を発見。

そこから直登5・6・1でおにぎり食べて水山通過。6・7・5でハヤトチリ、北へ下って計画成らず。




井中地区(徳昌寺)〜穴地蔵コース〜主尾根(安全山分岐)〜展望所(Ca480m)〜

十九山分岐〜穴地蔵〜561m〜水山(Ca730m)〜町境界〜町境界東進〜675m〜

町境界外れる〜丹波少年自然の家〜R=7〜井中地区(徳昌寺)。



◎所在地 : 氷上町井中と上新庄・清住地区境界尾根〜

◎地形図 : 2万5千図 『黒井(くろい)』  『大名草(おなざ)』

◎山行日 : 2006.10.14 (土)  曇り  @’00.3.12(カヤマチ山〜十九山〜水山〜561m)

◎山行条件 : 歩き/妻      Age=59

◎コースの見所 : @(8)展望所から大展望  A穴地蔵  B円通寺(紅葉名所)

◎走行距離 : 往路 A85.1 km  A往復 162.2km



自宅発(7:20)〜R=175〜西脇市野村東交左折〜R=346〜R=427〜中区〜

加美区〜道の駅R=427かみ(9:10)〜播州トンネル〜丹波市青垣町〜

R=7〜あおがき道の駅(9:27 発9:46)〜1・自転車デポ(9:55)〜R=109〜

2・S/G(10:04 発10:18)〜3・寺跡(10:21)〜4・(10:42)〜5・尾根(11:05)〜

6・トイレ(?)〜7・分岐(11:15 おやつ 発11:26)〜8・展望台(11:33)〜

9・穴地蔵(11:45 発12:00)〜10・561m(12:15 おにぎり 発12:38)〜

11・(12:51)〜12・達身山分岐(12:57)〜13・水山(13:09)〜

14・十九山・カヤマチ山分岐(13:22)〜15・675m(13:40)〜16・(14:14)〜

17・(14:31)〜18・林道(14:40)〜19・舗装路(14:53)〜

20・会話(15:15 発15:24)〜R=7(15:27)〜1・自転車(15:42)〜

自転車で走る〜R=109〜2・S/G(15:58)〜引き返し〜

あおがき道の駅(16:12 発16:37)〜R=7〜稲継交右折〜R=175〜自宅(18:30)



地形図2万5千図 『黒井(くろい)』 で未踏破の町境界(山域のみ・府県界含む)が今日歩く水山から△長ズエ△沼が在る町境界と黒井城跡からR=175(東)へ下る町境界になっていた。今日の境界を歩くについて『R=7から往復では面白くないし・・・ならばどうする』とあれこれ考えている時、 やまあそ が「穴地蔵〜安全山」を歩いた。『こんな所に古道が在ったのか、これを使って水山に上ってけば希望が叶う』そう思いながら今日になってしまった。

行きは久し振りに加美区を通って、道の駅で一休みして播州トンネルを通過、対向車に合ったか合わなかったか貸切道路みたい・・・。『カヤマチ山への林道入り口はここ』『高原寺の紅葉は・・・』なんて走っていると左に粟鹿山が見えてきた。高原寺の紅葉は全く色付いていなかった。あおがき道の駅で野菜などを買い込んで自転車デポ地に向った。△沼が在る界尾根は長い横ばい尾根で、その先端にデポ地を決めるに少し時間が掛かったが適当な場所が見つかった。 1・自転車デポ(9:55) 

R=7からR=109に乗って走り、何度か紅葉を観に来た円通寺前を通過して徳昌寺を目指した。広い谷の奥まった所に徳昌寺が見えて、 やまあそ が駐車したお寺の手前の墓地に私も車を置かせてもらい支度に入った。 2・S/G(10:04) お寺の上方には下りに歩く長い尾根が横たわり、虫と小鳥の鳴く声のみが耳に入る静かな立地環境。 発(10:18) 墓地から少し引き返し、今寺谷へ入って行くと直ぐ、道の傍らに「十九山古道・穴地蔵まで90分」との案内板が立っていた。

明るい田園から薄暗い植林帯に入って間もなく道の右に「今滝寺跡」の案内板が立っていてその奥に大きな五輪塔や石碑、小さな五輪塔や石仏(穴地蔵岩窟の石仏と同形と思う)が三体などが整然と並べられ、祀られていた。そこに立つ案内板には 「十九山登山口案内板・十九山は達身寺を抱く山で今寺谷から登る道端に106m毎に18体の石地蔵があり、因幡幸助の名が刻まれている。上新庄から達身寺に到る。登山口入り口には、今瀧寺墳墓数十基が残っている。また、甲谷の背面山上に穴地蔵の岩窟があり、四国霊場立江○からの分身「子授け地蔵」が祀られている。春には相当のお参りの人で振るわったと古書に記されている。」 と記されていた。※立江○=立江窟?

 
十九山古道の案内板この道を歩く      今滝寺跡左方・穴地蔵石仏と同形石仏3体あり(10:21)

寺跡から直ぐに一番の石仏(70×40cm)が建っていた。 (10:25) 地蔵菩薩の右に「因ш闔蛛v左に「幸助」と彫られていた。主に道の右側に広い段々が見られた。畑跡と思われた。段々に植えられた杉の生長度(樹齢)から推測(太い木)すると100年近く経っていた。しばらく谷筋を上り、やがて右の山肌に乗り谷筋から離れて行く。四番石仏 (10:34) 七番石仏(10:35) 六番石仏 (10:40) 細めのヤブツバキの群生を見る。谷をほぼ突き詰めた辺りから北向きに上り始める。そこには「九十九折・ここは休まず一気に登りましょう」と「穴地蔵」の案内板が立っていた。 4・(10:42) ※畑跡の最上部に小さいながら池跡が在った。

『つづらおれって実際はどんなもの・・・』気になりながら上り始めた。例のごとく、小枝を拾って曲がるごとに鉈目を入れて記録した。7から8曲がりは数歩で折り返すと言う短いスパン、8曲がりから植林帯から自然林に変わり赤松が主体になる、10曲がりの所に 八番石仏が建っていたがこの石仏だけ台座が何故か赤く塗られていた。 (10:49) やがて傾斜が緩み始めて尾根が近いと感じ、12曲がりで尾根に着いた。 5・(11:05)
 十九山古道の案内板この道を歩く   今滝寺跡左方・穴地蔵石仏と同形石仏3体あり(10:21)

寺跡から直ぐに一番の石仏(70×40cm)が建っていた。 (10:25) 地蔵菩薩の右に「因ш闔蛛v左に「幸助」と彫られていた。主に道の右側に広い段々が見られた。畑跡と思われた。段々に植えられた杉の生長度(樹齢)から推測(太い木)すると100年近く経っていた。しばらく谷筋を上り、やがて右の山肌に乗り谷筋から離れて行く。四番石仏 (10:34) 七番石仏(10:35) 六番石仏 (10:40) 細めのヤブツバキの群生を見る。谷をほぼ突き詰めた辺りから北向きに上り始める。そこには「九十九折・ここは休まず一気に登りましょう」と「穴地蔵」の案内板が立っていた。 4・(10:42) ※畑跡の最上部に小さいながら池跡が在った。

『つづらおれって実際はどんなもの・・・』気になりながら上り始めた。例のごとく、小枝を拾って曲がるごとに鉈目を入れて記録した。7から8曲がりは数歩で折り返すと言う短いスパン、8曲がりから植林帯から自然林に変わり赤松が主体になる、10曲がりの所に 八番石仏が建っていたがこの石仏だけ台座が何故か赤く塗られていた。 (10:49) やがて傾斜が緩み始めて尾根が近いと感じ、12曲がりで尾根に着いた。 5・(11:05) 

 
八番の石仏(10:49)     (4)案内板(10:42)

尾根北側はヒノキ林が続いて、一段目を上り切ると、尾根から右へ少し入った所にブルーシートの囲いがあり何かと思えばトイレの案内板が立っていた。 6・トイレ(?) 緩い上りから中上りを終えるとそこは主尾根で左(南東)安全山・右(北西)穴地蔵まで30分の案内板が立っていた。上り始めて初めて視界が開けるも視程悪く安全山すら霞んで見え、その左遥か彼方に愛宕山・五大山・三日月山が見え、安全山の手前右に大きく張り出し右肩が鋭く落ちるタカクラ/南後山(478.1m四等)・その右遥か彼方に氷上町の白山等が見えていた。 7・分岐(11:15) 

やまあそ は穴地蔵から引き返し、ここから安全山を経て下っている。ちなみに私は’99.3.6安全山から穴地蔵(当時は穴地蔵と言う名称を知らなかった)目指すもタカクラ/南後山(478.1m四等)へ迷い込みそこから激下りで上新庄へ下った。おやつを食べて 発(11:26) 左ヒノキ林右は猛烈な柴ヤブが続く、緩く下ってゆるく上ってコブを通過 (11:30) 

次の上り取り付きから左へ水平道が付いていて『これが穴地蔵への道か・・・』と思い迷ったが樹名を書いたラベルが尾根の木に付いていたので、こっちが本コースと決めて短急登尾根を上るとそこが展望台だった。 8・展望台(11:33) (7)分岐から南方面展望に加えて隠れていた東から北方面の展望が得られ、五大山から五台山。吼尾山から府県界尾根も全開した。

 
(8)から展望左五台山・尖り鷹取山・愛宕山・五大山   穴地蔵が在る岩場:東から(11:41)人物は妻
三日月山・手前井中地区(11:33)
 

穴地蔵へは展望台から少し進んだ所、急登とりつきから西山肌へ杉林を水平にトラバース、次の小尾根で右へ上れば十九山への案内板あり。急斜面をさらに横ばいに進むと谷向こう(561mから南へ下る尾根)に大きな岩場が見えて岩の付け根の大きな穴、これが穴地蔵の岩窟だった。岩窟の下を通過していると瓦と陶器の破片が見られた。561m尾根に着くと、その尾根を通過して次の谷筋へ向って道が付いていて「上新庄」との案内板が立っていた。

この岩場尾根に着いた時、ある日の記憶が蘇った。それは2000年3月12日 やまあそ・向井・私の3人で 達身寺〜葛野(かどの)峠〜カヤマチ山(748.3m二等))〜町境界東進〜726m〜柱谷(701.2m四等)〜十九山(じゅうくさん)677m〜水山(Ca730m)〜561m先で尾根から南の谷破線に下る(bP61)。561mから下る時に、この尾根の2箇所の大きな岩を見ながら、この辺りに在ると言う南無阿弥陀仏の石碑を見つけられないかと下った事。

古道入り口近くの寺跡の案内板によると、井中地区からここを通過して上新庄地区へ下り、清住地区の達身寺に到る。と記してある。ここから穴地蔵は目の前で、八番から見なかった石地蔵(70×40cm)が建っていた。上部が破損していて番数字の一部しか確認できなかったが12番かとも思う。「卍・穴地蔵寺跡・合掌お地蔵さんへ」の案内板の前を通過し、尾根の東面に在る穴地蔵に着いた。 9・(11:45) 岩窟の入り口右に南無阿弥陀佛の石碑が建っていた(H100×W55cm:実測)裏面に字が彫られていたが風化して全く読めなかった。

岩窟の入り口近く右寄りに如何にも寄せ集め的に思える基台の上に寺跡で見た石仏と同じ形(造り)の石仏が祀ってあった。どう見ても「子授け地蔵」には見えなかった。基台には安政二乙・・・と彫られていた。今は訪れる人は居ても手厚く祀られていると言うことは無いようだった。現在「子授け地蔵」は麓の何処かのお寺で祀られているのではと思う。※これらの石仏に関しては やまあそ のHPをご覧頂ければ良く分かると思います。

岩窟の右横にお堂だろう跡が在り(5m×10m?)が見られた。岩窟の石質は主に板状摂理だった。人工による窟だったが入り口左直ぐのかなり大きな岩の隙間を見た限りではどうやら鉱石を採った形跡のようで、岩窟は初めから仏を祀る(又は修行)ために掘られたのでは無く鉱石を採った後に手を加えて造られたのでは・・・と想う。

 
岩窟前の石碑(11:48)   岩窟内の石仏(11:51)


  
岩窟(左裾)が在る大岩:北東から(12:01)岩の高さ10m位   北方を守る毘沙門天皇像か・・・。画上部に見る屋方は自然・・・それとも人工・・・。

『さて、そろそろ561mへ上るには・・・』とお堂跡から上を見ると、横長の大きな岩場があり、『もしかすると何か祀られているかも・・・』と思うような大きくは無いが穴の様なものが数箇所在り。そこからは激急登、妻を上新庄分岐から561mへ上らして、私はその岩場へ直登した。 発(12:00) そこへ着くと、穴の様に見えていた所は、人工的に手が加えられて出来たようにも思え、ここも鉱石の素掘り跡穴かと思ったが・・・。横移動で確かめていると、上写真の壁画と思う物を発見した。『この画の色素はペンキではなくベンガラでは・・・』と思う色合いからも壁画の可能性が高い。ここは やまあそ に判断を仰ぎたいところである。

先行の妻の後を追って上る、2000年3月に下った時にはヤブっぽかったが下草も消えていた。尾根肩には険しくはないが大きな岩場が現れ、そこからは傾斜が緩んで主尾根に着いた。561m近くで前回に巻いた布が松にへばり付いていてホッ、この尾根を下ったことが確認できた。マーキングを“山のゴミ”と称するお方も居られるが私のような者にはやはりマーキングが頼りであるからお許しを願いたい。10・561m(12:15) 水山の方に少し下った岩の上でおにぎりタイムに入った。丁度西面のヒノキが数本倒れていて視界が開け、霞みながらも篠ヶ峰から大井戸山・竜ヶ岳が見えた。頭上をエナガの群れが渉っていく。

561mの北側は大きな断崖になっていた。おにぎりを食べながら561mに戻り柴の中に見かけていた大岩の上に立つも良き視界は得られなかった。 発(12:38) 左右植林帯が続いて中上りをしていると正面に大岩が重なる(記憶あり)その右を通過して岩の上に立つと大展望。 (12:51) 北から五台山から五大山・黒井城跡。安全山の奥に、微かに見える向山から清水山が単独山塊に見えた(弘浪山も)。西には白山から篠ヶ峰。

その上にもう一つ展望岩があり、一度緩んで急登終えると記憶確かな達身山への分岐支尾根。 12・達身山分岐(12:57) ここにはこちらの山でよく見る「幸世村直営林地境界」の石標に赤プラ杭が3本まとまって立っている。緩い上りから横ばいとなり、右は植林帯が続くが左は素晴らしい高木雑木帯が残されており癒された。次も記憶確かなウルトラ急斜面、開きは天に?向って直登。ジグザグと折れながら上り、大きな露岩が出てきて上り切ると、北面の一部が倒木によって開け、丁度下りに歩く長い界尾根が見え、彼方にはた。吼尾山から五台山・府県界尾根も全開した。 13・水山(13:09) 

展望は相変わらず無し。残念な気もするが人の手が入らず残っているのもまた嬉し。妻を待つ間に大きな立ち岩(何故か西面に集中)の下を探索するも発見は無かった。そんなことをしてる間に妻は先に進んでいた。 (13:12) 二コブ目に「幸世村直営林地境界」の石標の根元に「境」と彫った自然石があった(下写真)。 (13:16)

   
水山取り付きからの下山界尾根(13:12)  新旧?の境界石(13:16)境と彫られた石

自然林から、一転して植林帯に変わった尾根を行く。遠望では双耳峰に見えるのに現地ではそれを全く感じることが無いまま十九山・カヤマチ山分岐に着いた。 14・十九山・カヤマチ山分岐(13:22) ここには十九山への案内板が立っているかと思ったが立っていなかった。が、その方面を見下ろすと、ここまでに点々と残っていた布が、付けて間もない位に色もあせることなくひらめいていた。

ここから初めての町境界に乗って歩く事になる。右(東)は変わらずヒノキ林、左(西)は素晴らしい高木雑木帯が続く、そんな時、鹿の白骨が散乱していた。水平尾根を進んで肩からは下草無き急下りに入る。右ヒノキ林が自然林だったらどんにか好いだろうと思いながら下りコルに着くと大きなヌタバがあった。 (13:32) 

上り返しから、北から南へ倒れたヒノキが尾根を塞ぎ始めた。一時北が開け岩屋山とその奥に大蓑山が覗き上り切る。 15・675m(13:40) 緩く下って行き、尾根分岐に立った。直進尾根も下草無く誘い込まれそうだった。要注意点、方向を確認して下り始めた。左右険しい切れ落ちで露岩も出て自然味たっぷり。

なんて思いながら下っていると、右スギ林の樹間から見えるはずの無い尾根が見えてきて『アレッもしかしてコースを外したか・・・』。何度かコンパスで確認したが方向は合っていた。そう思いながらも下り続けていた時、左に大きな大きな岩頭を見つけそこに立つと間違いが明確になった。 16・(14:14) 町境界の尾根が東に見え、施設は見えなかったが丹波少年自然の家への谷へ向って下っていた。

つまり、下り始めた地点がワンポイント手前だったことが判った。とても引き返せないしトラバースして正規尾根に乗れるような山容でもなく、自転車デポ地には遠回りなるがこのまま下ることにした。せめて倒木が無いことだけを願って激下りを続け、水音が次第に大きくなって谷筋に着いた。 17・(14:31) 風倒木でなく間伐材が放置されていて歩きにくかったが、やがて作業道が出てそれを下って林道に出た。 18・林道(14:40) 

間もなく岩屋山への舗装路に合流。 19・舗装路(14:53) 前方からルーフにパラを満載したロールアウト(自転車でお世話になっている加藤さんの兄がこの地に移り住まれ、パラグライダーのインストラクターをされている)の車がやってきた。ちなみに何年前になるか私も加藤さんにタンデム(二人乗り)で岩屋山から安全山近くまで飛んでもらったことがある。

施設から離れて間もなく地元の人(70歳くらい)と会話になって、以前その人の友人が立山で遭難してヘリで救助されたこと等聞いて別れ、自転車デポ地へ向った(妻は道の駅へ向かいそこで私を待つことにした)。車に戻ると早くも夕方の感じがしていた。 2・S/G(15:58)


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青専は計画コース

@

丹波少年自然の家→
10・561m
11
12
13・水山
14
15・675m
17
16
18
19

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ポイントbヘ地図を一度削除した関係で
不明確とポイントが抜けている