05-347 書写山

古い記憶の登山口?聞けばここは違うと言われ教えてもらった「書写吹コース」
ジグザグじぐざぐ上って行って、磨崖佛で一休み。五輪搭や石仏見ながら深い森を上りきる。
広大な、僧坊跡を通過して着いた所は摩尼殿近く。行者道を辿って進むと
左高みに運良く書写山。その後柴藪下っていれば、予想もしてなき裏参道。
これまた運良く目標地点に下れたまでは良かったけれど・・・。
書写吹地区(R=67)〜書写吹・書写山登山口〜円教寺摩尼殿〜白山権現〜
書写山(349.9m三等)〜252m〜新在家地区(R=411)〜
姫路市と夢前町境界東進〜173m(峠)〜書写吹地区。
◎所在地 : 姫路市書写山円教寺と東の市町境界
◎地形図 : 2万5千図 『姫路北部(ひめじほくぶ)』
◎山行日 : 2005.6.25 (土) 晴れ
◎山行条件 : 歩き/妻 Age=58
◎コースの見所 : @ (5)磨崖佛 A 円教寺(摩尼殿と大講堂/新緑to紅葉)
◎走行距離 : 往路 35.5km 往復 72.0km
自宅発(7:55)〜姫路B/P〜中地L〜R=415〜414〜67〜1・(9:10 発9:31)〜
2・登山口(9:35)〜3・(9:41)〜4・(9:48)〜5・磨崖佛(9:55 おやつ 発10:11)〜
6・五輪塔線刻石(10:15)〜7・石仏(10:28)〜8・摩尼殿(10:41 発11:15)〜
9・白山権現(11:20)〜10・講堂裏(11:34)〜11・分岐(11:49)〜12・書写山
349.9m三等(12:00 おにぎり 発12:30)〜13・裏参道(12:55)〜14?・(13:10)〜
15・裏参道口(13:23 発13:45)〜16・林道終点(13:58)〜17・峠173m(14:14)〜
18?・寺跡?(14:21)〜19・(14:30)〜20・砂防ダム(14:56)〜21・(15:11)〜
1・(15:22 発15:30)〜書写の里・(15:35 発15:57)〜往路〜自宅(17:06)
今日も篠山の白髪岳近辺に行く予定だったが朝になって都合が悪くなった。では何処へ行く・・・。とっさに近場と言っても・・・歩き残しのコースは皆距離が長いし・・・。短いコースで、と探した結果このコースにきめた。’96年3月16日にそうめん滝〜増位山〜広峰山〜氷室池(山冨団地)〜書写山東坂参道〜書写山円教寺〜刀出坂参道〜刀出地区をMTBで走破した時、書写山境内の北に在る三角点(349.9m)を地図で見て以来何度か見ながら等高線の幅が広く、私には手強く遠退いていた事を思い出してここを歩くことにした。
歩くコースは、歩いたことの無い初めてのコースを計画。下山コースと車に戻ってくるコースは直ぐに決まったが上りを何処にするか悩んだ。’96年3月16日に広峰山から下って夢前川に出た時川向こうを歩いているハイカーを見かけた。あの辺りから書写山へ上れるのでは・・・と思っていたのでその道を探して上る事にした。山冨橋を渡ると左に近畿自然歩道の道標が立っていて「氷室池と書写の里」方面が標されていた。書写の里方面へ入って間もなく開けっ放された倉庫で婦人(70歳位?)二人が何やら楽しそうに会話をされていた。
「この辺りに書写山への登山口は無いですか」「それやったらこの先の坂を上った所に在る竹尾ぶつだん店の横にあるけど車を止める所が無いと思うで」お礼を言ってそこへ向かった。
竹尾ぶつだん店の所へ行くと横にある鉄製のポールに「書写吹・書写山登山口」と標されたプレートが付けられていた。車の置き場を探したが聞いた通りその近辺には無く、少し先まで行ったが止める所が無くて引き返し手前の農道の広場に止めさせてもらった。 1・(9:10) 西方面を見ると書写山ロープウェイの支柱が山肌から飛び出ているのが見え、東を見ると結構険しいピークが連立していた。
発(9:31)車道を歩いて登山口に着いた。
2・登山口(9:35)

(2)書写吹・書写山登山口円教寺境内の観光絵図には『置塩坂参道』として描かれて
いたと思
プレートには「レッドスネーク歩こう会姫路toゴールドスネーク歩こう会夢前」と小さく書かれていた(落書きではない)。少し上ると道は分かれていたが「左 書写山」との簡易案内板が立っていた。道は古来より踏み込まれているのが良く分り、草刈もされてより歩き易かった。露岩は削りり取られて階段に加工されていた。 3・(9:41) ここから急斜面の山肌を斜め上へと横断して行き、南尾根に乗る。 4・(9:48) 所々に石段が出たり軽いU字道になったりする。柴藪尾根から左に外れて上っていると開け、そこの大きな岩に磨崖佛が有った。 5・(8:55)

(5)磨崖佛 矢印は蓮の線刻
彫り出された磨崖佛は、線刻の蓮に座していた。石仏の名は私には分らなかった。岩の大きさは最大高2m最大幅2m30cm、石仏の高さは80cmだった。表に銘が見られなかったので裏へ回って見ると一個だけだったが瓦の破片が有ったので何時の頃までかお堂が建っていてその中で祀られていたと思われる。そこからは山冨橋や書写Gの一部、遠くに霞んでいたのは広峰山と思う山も見えた。一汗も二汗もかいていてオレンジを食べて休む。
発(10:11)
展望は塞がって大きな露岩、岩場とも言える所を緩く上って行き、尾根を回り込む所。
6・(10:15) 高さ1.5mの岩の前面に線刻の五輪塔が建っていた。以後薄暗い急斜面の山肌を横へと進む。道端に点々と五輪塔が建っていて、その内の一箇所には四体?がまとめられていた。上りにかかって間もなく石仏三体(供養?)と五輪塔1体が横一列に並んでいた。
ここから左竹やぶの中に道も見たが使われている形跡が無かった。
7・石仏(10:28) 直ぐ上道端左に「左 かんをん道(他にも何か彫られていた)」の道標が寝かかっていた。その辺りはもう境内だったのだろう低い石垣や広い平地が段々に在った。上りから下りに変わって歩いていると、樹齢百数十年の杉や樅の木が根元から倒れていたが道を塞いでいる木は切って処分されていた。どんどん下っていると「左 たんごみち」の石仏道標が建っていた。(7)からの道だろうか古い道が東から来て合流していた。
さて、何処に出るのか楽しみにして下っていると有料送迎バスの発着所辺りに出た。そこから右土塀に沿って下って行くと摩尼殿の下に出た。
8・(10:41) 新緑がすごくきれいだった。石段を上がって広場に着いた時お参りの人に挨拶を交わしたのがきっかけで会話になった。吹田市から来られた人(65歳位?夫婦と娘さん)で西国三十三札所を巡られていて今は三回目を巡っているとのことだった。私生活の一部(健康面)まで話し合って別れた。長話で「三角点に上手く立てるかな」との緊張感が薄れてしまっていたが、気を引き締めて発つ。 (11:15)
白山権現から講堂への道を辿ると371mピークを通過できそうだったので摩尼殿の横からそこへの道を上って行くと最高点の手前に白山権現が建っていた。
9・(11:20) 『・・・一月十八日修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、青鬼が、先ずこの白山権現に来て神域をまわりながら四隅でたいまつの明かりを振りかざす。・・・』等の解説板が立っていた。南が開けていて何処かの市街が見えていた。講堂への道は続いていたがそれから北に外れて尾根に乗ると、そこには自動車道?が付いていて??それを歩いて371mへ向かった。
371mは小高いピークで、道は左下をトラバースしていた。五輪塔を時々見かけ、方向を確認しながら歩いていると一辺数十mのコンクリート製の長方体の横に出た(多分貯水層だろう)。進んでいると、廃寺の崩れかけた土塀が出て計画尾根が歩けず、それに沿って下っていると白山権現から講堂への道が左から合流して来た。間もなく講堂の裏(横)高い石垣の上に出た。
10・(11:34)

(8)摩尼殿の下に出た (10)講堂の裏から講堂を覗く
その道は尾根の南に外れていたので右上の廃寺(明治25年)へ入って行く。境内だったと思われる平地を進んで突き詰め、境内から抜け出ると直ぐ道に合流した(先ほどの道と思う)。車も通れる幅の広い道で杉・桧・樫?などの混生林の中、横ばいの道を進んだ。進みたい方向と合っていてラクチンであったが本当にこの道で良いのか・・・?何処とつながっている・・・?との不安もあった。大きな谷に盛り土して出来たような道を通過して次のピークに取り付く。 11・分岐(11:49)
歩いて来た明るい道は左へ巻き、尾根正面にも道が上がっていた。そこに建つ石仏道標には「左 いちのみや 右 きやうぢや・・(下の方の字は根元を掘って読めた)」 いちのみや とは宍粟市のいちのみやを指しているのか・・・。 きやうぢや は行者だろう。もう一本はコンクリート製で「左 おじぞうさん」とだけ彫られていた。正面の道を上って行くと「行者道」との石標が点々と立っていた。
やがて小振りながら立派なお社が建っていてそこに「弁天」とだけだったか案内板が掛かっていたのでその方(左)へ入って行くと間もなくコンクリートの壁に守られた建屋の中にお社(弁財天だろうか)が有った。 (11:58) 最近お参りされた形跡無く近くに生えていた榊をお供えして元の道に戻った。方向を確認しながら丘ピークを越えて行く。三角点へは深い柴又は笹ヤブをも覚悟し、尚等高線から見てそこへ立てるか心配していたが道は進みたい方向へ続いていた。
展望なき横ばいが続いて、何時もながら現在地が曖昧になっていった。そんなことを思いながら緩く上っていると左小高い所に白い杭がチラッと見えて近寄ってみると三角点だった。 12・書写山(349.9m三等) 展望なし。広場になっていて、おにぎりタイムに入る。立ち木を2本つないだ長さ6mくらいの先端に対航空標識の羽が付いている木が横たわっていた(数十年経過)そして一枚のメルヘンチックな登頂記念プレート(18×15cm)が掛かっていて裏に「H16.2.19佐藤・熊田・栗岡・青木」の名が入っていた(下写真)。

行者堂への案内
蚊がいなくて幸いだった。地図では三角点が最高点で無いように思えたので方向を確認して発つ。 発(12:30) 道に戻って進むと行者堂への案内が立っていて(上写真)、直ぐに下り勾配に入って行った。方向が北向きのまま深い谷へ下って行くので二本目の石標から西に向きを変えて道無き山へ入って行った。行者堂は何処に建っているのだろう・・・。コンパスが指す方向を信じて南北尾根に乗ること願って小ヤブを下っていると、いきなり明るい道に出た(尾根東谷)。
13・裏参道(12:55) 西の谷から上がってきて進む方向へ延びていた。谷からの道は(11)地点で左へ巻いていた道だと思う。(この時点ではこれが裏参道と判っていなかった)。左の尾根に上がって見ると私の姉が住んでいる「刀出(かたなで)」地区が見えて家も俯瞰できた。 262m地点への尾根を下る計画だったが道もその方向へ下っていたので、暑さと疲れもあって、明るい道から外れてその尾根に乗る気力も湧かず、等高線より数段険しいウラジロと柴ヤブ尾根の右下に付いた道を下った。
262m地点辺りだろうか前方が足元から開けてR=411沿いの集落と車へ戻る時に歩く深い谷筋も見えた。この時点で、この道が目的の下山地点の町境界と実線に下れそうだと思った。「もし尾根を下ったとすれば倒木もあるし大変だった」と思いながらシダ道を下っていると尾根肩に光背?を付けたお地蔵様が祀ってあった(下写真)。14辺り・(13:10)

道の右(北)上に祀られるお地蔵さん 道の両側に美しいウラジロが続く所もある
お地蔵様の高さは70センチ位で素朴な表情、(11)地点での「おじぞうさん」とはこのお地蔵様のことかと思う。ここでも榊をお供えし、誰かがお供えしての残り物だったかも知れないが散乱していたペットボトルを回収して発った。またしても「もし、この道が無かったら・・・」と思いながら険しい尾根に沿って(ある時は尾根)ジグザグと下って運良く計画していた地点に下れた。 15・(13:23)
そこには地蔵堂が建っていて中にはお地蔵様が2体(3体かも)が祀ってあった。最終的に(11)地点の「おじぞうさん」とはここを指していたのかと思った。「利用せし 人数しれず 裏参道」との句?を書いた板が掛かっていて、下ってきた道が通称「裏参道」である事が分った。(後日、山歩きでもお世話になる井上さんから書写山へ6本の参道が在ってそれを一日で歩かれた人のウエブが届いてそれを見るとこの道は鯰尾(ねんび)坂参道である事が分った)地図を見ると当地の北直ぐに鯰尾地区が在った。
先に下った私は実線の道を確認に行き戻り一休みして発った。 発(13:45) 実線の道は舗装路で、「私有地につき通過禁止」との看板が立っていたが進入させてもらった。さて、「通過」の意味は・・・解釈によっては山を越しているようにも思えたがどうなんだろう・・・と思いながら上った。今は使われていない大きな倉庫の前を通過して上って行くと、栗園になっていて通過禁止の意味が分った。地図通り右に大きな砂防ダムを見て上っていると堆肥を作っているような建物が在ってそこで林道は終わっていた。 16・林道終点(13:58)
猪鹿避けネットを越して人跡感じられない谷間を上る。ちょろちょろと水が流れ、いかにもヒルがいそうな湿地帯が続く。地形を見る限り峠を越える道が在って当然と思っていたので、よく見ると確かに古道が残っていた。谷に入ると一層暑かったが間もなく上り切った。 17・峠173m(14:14) 南側に高さ50cm1m四方の石組みの台だけがあったが祠でも建っていたのか・・・。北の高木雑木帯尾根は下草無く明るい切り開きがあった(何処でも歩ける)。
南は峠から取り付いて横ばいの道が付いていたが見ていない行者堂とつながっているのかも・・・。峠から少し下ると、人の手が入って整備された遊歩道と思えるすばらしい道が付いていた。これで相応の水が流れていればと思ったが流れていなかった。高木雑木帯に心身を癒されながら下っていると谷筋の右薄暗い平地に大規模な建物跡の石垣群が在った。 18辺り・(14:21) (お寺跡の様であったが下山後も住民に会う事も無く聞き取りも出来なかった)
谷が開けて広々した所に出た。 19・(14:30) 道は北の谷へと上っていて、境界の谷には道は無く(手前に在ったかもしれない)物凄い笹藪、仕方なく上って行った道に望をつないで辿ると谷の向こう側を下っているように見えた。確かに少し下っていたがその道は北の168mピークへ向かって枕木の階段で上がっていた(何処までかは不明)小さな溜池が2つ在ってそこからも身の丈を越す笹藪だった。もう笹藪から逃げる訳に行かないので笹藪に突入した。
少し下ったが笹藪より「少し位濡れても谷川の方がまし」と谷川を歩いた。垂れた笹や枝を切り払いながら下っていると大きな鹿が走りび去った。ふと、視線を上げると、とてつもなくデッカイ砂防ダムの底に接近していた。 20・砂防ダム(14:56) 地図では等高線の間隔も広く何の心配もしていなかったが現地は深い谷で物凄い笹薮。左右ともにダムを越えるにはとても厳しい状況だった。さて、どうする・・・。
ふと思いついたのは「砂防ダムには水抜きの穴が有る」その穴が有って、しかもその穴を人が通る事が出来、さらには穴を出た所が低い位置でダムの下に出られる。こんな都合の良い条件を満たしてくれる事があるだろか・・・。一か八かダムの底に近寄って行った。流れる水も少なく穴の大きさはしゃがめば通れる大きさ。覗けばクモの巣はあったが穴の向こう側に川底が見えていて、全てを満たしてくれていた。ダムの幅は8m位だったか通り抜けると高さ1m位の段差で川底に降りられた。ダムの高さは15m位か。

(20)ダムの水抜きから出て来る妻 三面護岸の谷川はこんな状況
三面護岸の谷川をチャプちゃぷと歩いて下っていると、高さ2m近い川底の段差部分に差し掛かった。私は簡単に飛び降りられたが妻が降りられなく護岸の水抜きの穴に流木を差し込んで足場にして一旦は上へ上がったがやはり笹藪が厳しく又谷へ降りて歩いた。次の段差は腹ばいになって私が補助して何とか降り、3つ目に差し掛かった所で引水用の溝があってそれを伝って民家の裏に出ると犬に鳴かれたが舗装路に出て車に向かった。
R=61に出る所に石仏道標が立っていて(今日見た石仏道標は道の案内の上に全て石仏を冠していたと思う)「右 たんご」と彫られていて道の部分から下は折れて横に転がっていた。「たんご道」をあちこちで見たがおそらく現在京都府の「丹後」だと思う。車に戻って、道端ではうるさいので「書写の里」の駐車場へ場所を変えて着替え、休んでから帰路に就いた。
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